「八王子」の語源は牛頭天王の八人の王子?東京西部の地名の由来


牛頭天王の八人の王子が語源

「八王子」の語源は、牛頭天王(ごずてんのう)の八人の王子を祀ったことに由来するとされています。牛頭天王は素戔嗚尊(すさのおのみこと)と習合した神で、その八人の子が「八王子」と呼ばれ、これを祀る神社が置かれた地に八王子の名がつきました。

牛頭天王は京都の祇園社(現在の八坂神社)の祭神としても知られ、疫病除けの神として全国的に信仰されていました。その八人の御子神を「八王子権現」として祀る信仰は関東・関西を問わず各地に広まり、地名としての「八王子」もこの信仰圏の広がりを背景に生まれたと考えられています。

八王子神社が地名の起源

八王子の地名の直接の起源は、深沢山(現在の城山)に建てられた八王子神社です。延喜16年(916年)に華厳菩薩妙行が深沢山の洞窟で修行中に牛頭天王と八王子が現れたという伝承があり、これにちなんで神社が建立されました。

八王子城が戦国時代の拠点に

戦国時代、北条氏照が深沢山に八王子城を築き、関東支配の拠点としました。1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの際、八王子城は激戦の舞台となり落城しました。この城の名前も八王子神社にちなんだものです。

落城の際には城主・氏照が小田原城に詰めていたため城内は少数の兵と婦女子が守るのみで、豊臣方の大軍によって一日で陥落したと伝えられています。この落城の悲劇は「八王子城の戦い」として語り継がれ、現在城跡は国指定史跡として整備され、御主殿の滝など落城にまつわる史跡が今も残されています。

江戸時代は甲州街道の宿場町

江戸時代、八王子は甲州街道の宿場町として栄えました。江戸と甲府を結ぶ主要街道の要衝に位置し、絹織物の取引で賑わいました。「桑の都」とも呼ばれたほど養蚕が盛んで、絹の集散地として経済的に重要な役割を果たしていました。

八王子は「桑都(そうと)」の異名のとおり、周辺の農村で生産された生糸や織物が集まる市場町として発展し、毎月複数回開かれる「六斎市(ろくさいいち)」には多くの商人が集まりました。明治以降も横浜港へ生糸を運ぶ中継地として栄え、この物流の要としての性格が、後の鉄道網の整備にもつながっていきます。

「八王子千人同心」は独特の制度

江戸幕府は八王子に**千人同心(せんにんどうしん)**という武士団を配置しました。甲州口の警備を担う半農半武の組織で、約千人が八王子周辺に住み、有事には軍事力として機能しました。日光東照宮の火番なども務めた独特の制度です。

大学が多い「学園都市」

八王子市は現在、20以上の大学・短大が集まる「学園都市」として知られています。1960年代以降、都心のキャンパスが手狭になった大学が広い土地を求めて八王子に移転・進出し、学生人口が多い街として発展しました。

これほど多くの大学が一都市に集積する例は全国的にも珍しく、市内には10万人規模の学生が在籍しているとされます。かつて養蚕・絹織物で栄えた産業都市が、教育・研究の拠点都市へと姿を変えていった過程は、地域産業の転換の好例として都市計画の分野でも取り上げられることがあります。

高尾山は八王子市にある

ミシュランガイドで三つ星を獲得した高尾山は八王子市に位置しています。年間約300万人が訪れる世界有数の登山者数を誇る山で、八王子の自然環境の豊かさを象徴する存在です。

全国に「八王子」の地名がある

「八王子」という地名は八王子市だけでなく、全国各地に存在します。いずれも牛頭天王の八王子を祀る八王子神社にちなんだもので、八王子信仰が日本各地に広まっていたことを示しています。

「八」は末広がりの吉数

八王子の「八」は日本では末広がりの吉数として縁起が良いとされています。八王子という地名自体にも繁栄の願いが込められているとする解釈があり、実際に八王子市は東京都の市区町村で最大の人口(約58万人)を擁する大都市に成長しました。

八王子まつりは関東有数の山車祭り

毎年8月に行われる八王子まつりは、19台の精巧な彫刻山車が甲州街道を練り歩く関東有数の山車祭りです。江戸時代から続く伝統行事で、80万人以上の人出があります。宿場町時代から続く八王子の歴史と誇りが凝縮された祭りです。

牛頭天王の八人の王子を祀った神社が起源の「八王子」。戦国の城から宿場町へ、養蚕の街から学園都市へと変貌を遂げた八王子の歴史は、神話に始まり現代に至る、東京西部の壮大な物語です。