「有楽町(ゆうらくちょう)」の語源は?織田有楽斎(おだうらくさい)の屋敷跡に生まれた銀座の隣町
「有楽町」の語源をめぐる二つの説
有楽町という地名は、織田信長の弟にあたる茶人・織田有楽斎(おだうらくさい)の屋敷があった場所に由来するとされている。関ヶ原の戦いののち、有楽斎はこのあたりに屋敷を構え、後にその跡地が「有楽原(うらくがはら)」と呼ばれるようになり、明治5年(1872年)の町名制定でそこから「有楽町」という名がついた、という説が広く知られている。
ただしこの説には異論も根強い。歴史学者の吉田東伍は、有楽斎が江戸に屋敷を賜った記録が見当たらないことを指摘しており、地理学者の谷川彰英は、屋敷があったとされる一帯がもともと日比谷入江という遠浅の海で、埋め立てが進んだのは1620年代であるため、その時期に大名屋敷が建っていた可能性は低いと論じている。代わりに、埋め立て地を指す「浦が原」という地形由来の言葉が「有楽が原」に転じたのではないか、という説も示されている。有楽町の語源は、今も決着のついていない東京の地名史の謎のひとつといえる。
茶人・大名としての織田有楽斎
有楽斎の本名は織田長益(おだながます)。織田信秀の十一男で、信長の弟にあたる。天文16年(1547年)に生まれ、元和7年(1621年)に没した。本能寺の変の際は、信長の嫡男・信忠に従って二条御所にいたが、信忠が自害する中で自身は脱出しており、この振る舞いは京の子どもたちの替え歌で揶揄されたとも伝わる。その後は豊臣秀吉、徳川家康に仕えて政治的に立ち回り、大坂の陣ののちは茶道に専念して有楽流という流派を興した。長益が建てた茶室「如庵(じょあん)」は、京都・大徳寺の密庵、妙喜庵の待庵と並ぶ現存最古級の茶室として1936年に国宝に指定され、現在は愛知県犬山市の有楽苑に移築保存されている。
「有楽」という号が意味するもの
有楽という号は「楽(たのしみ)がある」「風雅な楽しみ」を表す言葉とされ、政治の表舞台から退いて茶の湯に生きた長益の生き方を映したものと考えられている。この号がそのまま地名として東京の一角に残り、後年その場所が映画館や劇場、飲食店の集まる娯楽の街へと育っていったことは、語源と街の性格が偶然にも重なり合った例として興味深い。
江戸の屋敷跡から近代の繁華街へ
有楽町の一帯は江戸時代を通じて大名屋敷が建ち並ぶ武家地だった。明治維新後の廃藩置県で屋敷地が整理され、明治5年に町名として「有楽町」が定められた。1929年には北側の区域が丸の内に編入されて範囲が縮小し、現在のような一・二丁目の姿になっている。1933年から1934年にかけて日本劇場(日劇)や東京宝塚劇場が相次いで開業すると、有楽町は映画と演劇の街として賑わうようになった。戦後は焼け跡の闇市から復興し、新聞社や放送局、映画館が集まる情報・娯楽の中心地として発展を続けた。
有楽町駅の開業とターミナルとしての歴史
有楽町駅は1910年(明治43年)に開業した。これは東京駅の開業(1914年)より4年早く、山手線・京浜東北線の駅としては比較的早い時期にあたる。開業当初から都心と郊外を結ぶ結節点として機能し、その後の街の発展を支えてきた。
「有楽町」の名を広めた地下鉄路線
東京メトロ有楽町線は、地名をそのまま路線名に採用した路線である。1974年に池袋から銀座一丁目までの区間で営業を開始し、その後延伸を重ねて1988年に和光市から新木場までの全線が開通した。地下鉄の路線名として使われたことで、「有楽町」という地名は都心の広い範囲で日常的に耳にする言葉になった。
「有楽町で逢いましょう」が広めた昭和のイメージ
1957年、フランク永井が歌った「有楽町で逢いましょう」は、大阪発祥の百貨店そごうが東京進出にあたって使った宣伝キャッチフレーズをそのまま曲名にした歌である。そごうが提供する番組の企業ソングとして生まれたこの曲は大ヒットとなり、「有楽町=おしゃれな待ち合わせ場所」というイメージを全国に定着させた。一企業の宣伝がここまで広く地名のイメージを形作った例は珍しく、商業宣伝史の成功例としてもたびたび取り上げられている。
銀座と隣り合う繁華街としての個性
有楽町と銀座は隣接しており、両者の境界は感覚的に曖昧だとよく言われる。1984年に開業した有楽町マリオンは、その境界近くに立つランドマークとして知られる。老舗や高級ブランドの街という銀座の性格に対し、有楽町はビジネス街であると同時に、映画館や劇場、大衆的な飲食店が集まる街としての性格を持ち、隣り合う二つの街の違いが東京の繁華街に厚みを与えている。
東京国際フォーラムというガラスのランドマーク
有楽町駅前に建つ東京国際フォーラムは、建築家ラファエル・ヴィニオリの設計により1996年に完成した複合文化施設である。全長約207メートルにおよぶ舟形のガラス棟(グラスホール)が象徴的で、国際会議場やホール、展示場、飲食店を備え、コンサートから国際会議まで年間を通じて多様な催しが開かれている。ガラス張りの吹き抜け空間は、東京を代表する現代建築のひとつとして親しまれている。
ガード下の飲食文化と再開発が進む有楽町の今
JR線のガード下やコリドー街には、昭和の雰囲気を残す居酒屋や焼き鳥屋が軒を連ね、仕事帰りのビジネスパーソンが集まる一角として長く親しまれてきた。一方で近年は有楽町駅前の再開発計画が進み、高層のオフィスビルやホテルへの建て替えが検討されるなど、街の姿は変わりつつある。それでも東京宝塚劇場やよみうりホールといった文化施設は今も残り、映画や演劇の街としての性格を伝え続けている。屋敷跡かどうかは定かでないにせよ、「有楽」という号に込められた風雅な楽しみという意味合いが、待ち合わせの街、娯楽の街として今も息づく有楽町の姿と重なって見えるのは確かだろう。